読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

緩くいこうぜ、人生長いんだ。

お前の人生ようやく始まったようなもんじゃん。

【感想】空海と最澄はどっちが偉いのか?日本仏教史七つの謎を解く/島田裕巳

タイトルに惹かれて買った本。

 

日本仏教史の中で、空海最澄はなかなか面白い存在だと思います。

叩き上げの天才で真言宗を完成させた空海と、エリートだが天台宗を完成させられずにこの世を去った最澄

同じ時期に生きた二人の対比は中々に面白いです。

 

本書の表題もその対比から来ているのですが、あくまで一つのトピック。

他にも、葬式仏教についてや親鸞日蓮についてなど、本書が規定する「七つの謎」について平易な文章で書かれています。

 

 

本書を読んで感じるのは、日本仏教の異様さ

元々は「渇愛を滅尽して物語の世界(輪廻)から脱出せよ」という教えでしかない釈迦の教えを、色々とカスタマイズして出来上がった日本仏教

一番目から鱗が落ちたのは、「仏教は現世で輪廻を止めるための教えで、出家者は家族を持たない。だからそもそも仏教が家族や葬式と結び付くはずがない」という説。

なるほど確かにと思いました。

 

では、何故日本仏教ではそうなったのか。

普段は当たり前と思う葬式仏教が成り立っているのか。

そこには、日本古来の思想としての神道が影響していると言います。

神道八百万の神々と言うように、何でも神にします。

また、先祖霊の考え方もあります。

この神道が日本人の思想のベースにあるから、仏教が死と結び付いたり、釈迦を神の様な存在とみなす思想が生まれたのではないかと筆者は述べています。

なるほど、納得感があります。

 

となると、日本の仏教の異様さを解明する鍵は今度は神道にある訳です。

普段何気なく行く神社の裏にはどの様な思想があるのか、そして、それまでの神仏習合を止めさせた廃仏毀釈も気になります。

廃仏毀釈が起こったから、日本人の信仰が無理やり仏教から引き剥がされてしまった。

それでも人々の生活の中には仏教の習慣や思想が根付いていたから、おかしな事になっていった。

何故政府は廃仏毀釈を行ったのか、目的と効果は何だったのか。

ここも気になります。

 

もっと言うと、天皇についても気になります。

元々仏教は国家宗教として伝来して、天皇自ら仏教に帰依していた。

でも、上述の廃仏毀釈の影響で信仰は神道となった。

そもそも、天皇とは何なのか。

日本人の思想にどんな影響を与えているのか。

 

気になることだらけですね。

 

 

普段当たり前と思っていることも、よくよく考えてみると分からないことだらけ。

そんなことを再確認する良い機会となりました。

 

 

 

 

 

鳴沢氷穴とほったらかし温泉

昨日は、会社の同期と共に山梨県鳴沢氷穴ほったらかし温泉に行ってきました。

 

10時に新宿で車を借りて中央道へ。

天候に恵まれ、穏やか日差しの中の出発となりました。

 

12時頃に鳴沢氷穴に到着。

大昔に富士山が噴火した際に出来た穴だそうで、中は常に0度近く、天然の冷凍庫となっていました。

低い天井に頭をぶつけそうにながら進むと、綺麗な氷柱が。

あまりの寒さに身震いしましたが、普段は無い体験に興奮しました。

真夏に来たらさぞかし面白いだろうなと思います。
f:id:Mochiarion:20170423175923j:image

 

次は、山を越えて山梨市のほったらかし温泉へ。

盆地の縁の山の上ということで、甲府盆地を一望出来る絶景。

残念ながら富士山は雲がかかって見えませんでした。

お湯も丁度良い温度で、いつまでも浸かっていたくなりました。

経費をかけていない感丸出しの施設も良い感じで、何度も来たくなりました。
f:id:Mochiarion:20170423180732j:image

 

富士山周辺は割りかし身近でドライブには良いですね。

ただ、帰りの中央道が渋滞するのは毎回苦痛…。

今度は全体的に旅程を早めて行きたいです。
f:id:Mochiarion:20170423201907j:image

ごめんなさいとありがとう

自分が何かをしでかして、それを他の誰かがリカバーしてくれたり許してくれたりしたとします。

そんな時、相手にかける言葉としては二つあると思うのです。

 

一つ目は、「ありがとう」。

二つ目は、「ごめんなさい」。

 

両方共よく使う言葉なので、無意識の内に使ってしまっている場合があります。

でも、その言葉が持つ意味の違いは大きいと思うのです。

具体的に言うと、言葉がどこに向いているかということが。

 

「ありがとう」の場合。

これは、言わずもがな感謝の意を表する言葉なので、言葉は相手に向いています。

自分がやったことを相手が受け入れて、背負ってくれたことに対する感謝の気持ち。

過去の事をここで終わらせて、これから頑張ろうという前向きな言葉。

だから、言われた側も言った側も前向きになって次に進むことが出来ます。

 

対して、「ごめんなさい」の場合。

これは過ちを謝罪する言葉なので、実は自分に向いています。

相手に対して謝罪をするのは自分のやったことを許して欲しいから。

許されることにより、自分が救われたいから。

相手に向かっているようで、その実そこからの返事を求める為の、自分の為の言葉。

だから、言われた側は相手を許すための言葉や行動を返さなければならないし、言った側は本当に相手が許してくれているのか疑心暗鬼になる。

後ろに戻る圧力の方が強くなって、前に進めなくなるのです。

 

 

だから、人が何かをしてくれたら、「ごめんなさい」と言った上で「ありがとう」と言わなくてはならないと思うのです。

そうすれば、自分の過ちを謝罪した上で相手に感謝を伝えることが出来るから。

でも、「ごめんなさい」と「ありがとう」の間には、「自分の過ちと他人からの許しを認めて受け入れる」というステップが入るので、そのステップを踏めるかどうかは性格とか考え方に依るのだと思います。

 

 

私の場合は、基本的に「ごめんなさい」で止まってしまう事が多いです。

多分「ありがとう」と言うのが怖いのだと思います。

その言葉を言ってしまえば、自分が許されたということになるから。

前を向くしかないから。

過ちを冒した自分は、許される訳がないと勝手に思っているから。

勝手に思って、勝手に止まって、相手からの許しを引き出したいだけなのです。

 

でも、それだと実は相手にさらなる負担を強いていることになります。

ただでさえ自分のやった事を許してもらっているのに、それに加えて具体的な許しの行動を求めようとする。

相手にとっては良い迷惑です。

 

なので、これからは「ごめんなさい」と言ったら「ありがとう」と言うようにします。

自分のやったことを反省して、前に進むということは、そういうことなのだと思います。

仏教とプログラミング

仏教に興味があって、プログラミングの勉強をほそぼそ始めた私。

そんな私の先輩というか、先駆者がいらっしゃる事を発見しました!

 

こちらのブログを運営されている方がそうで、仏道に帰しながらRubyを独学でやられているそうです。

http://syurakannon.com/

 

仏教をプログラミングで表現するという全く新しい試みをされているのはとても面白く、為になります。

 

私も、プログラミングの勉強について少しはアウトプットしないともったいないので、どうにかやろうと思います。(まだ出来る程勉強していませんが)

何か自分の好きなものをテーマに遊んでみるのが良いのかもしれません。

 

自分と同じ様な興味を持ってやられている方を見ると元気が出ます。

私もほそぼそと頑張ってみようと思います。

社会の縮図から

朝、いつもと同じ時間に同じ様に駅に着く。

なんだかいつもと少しだけ様子が違う。

毎日乗っている時間の電車が遅延しているらしい。

とはいえたかが5分程の遅れなので特別気にしない。

始業時刻には余裕で間に合うのだ。

 

既に出来ていた待ち列の後ろに付く。

電車を待っている間にも、私の後ろに同じ様な待ち人達が連なっていく。

皆一様に電車が来るのを待ち、それに揺られて何処かへ行くのだ。

私はスマホにイヤホンを刺し、最近お気に入りのエレクトロニカを聴き始める。

騒がしい朝、せめて耳元だけは静かにいたいものだ。

 

ようやくホームにやって来た電車が、ゆっくりと速度を落とし、私達の列の前にドアをピッタリと寄せ、止まる。

ドアが開こうとしたが、スムーズに開かない。

既に乗っている人達の圧力により、横方向に開く力が上手く伝わらないのだ。

苦しそうに何度もその身を震わせながら、ようやくドアは開き、電車への入り口を作り出す。

そこから吐き出される人々。

あるいは前を見ながら、あるいは手元の小さな画面を見ながらホームに降り立つ人々。

ここが停車駅では無いのだろう、階段に向かわずにドアの前に留まる人もいる。

それにより通路が狭められ、まるで詰まった血管の様に流れが悪くなっていく。

 

ようやく降車が終われば、次は乗車の番。

食い気味に鳴り響く発車のベルに焦りながら、前の人を押し退け、横入りをしながら、我先に電車に乗ろうとする人々。

その圧力に押されて、流されるままに電車に乗る私。

気付けば、押し合う人達の中に上手いこと収まっていた。

 

これだけ混んでいては何も出来ないと、スマホを取り出して本日分のブログを書くことを諦め、目を閉じる。

耳に嵌めたイヤホンから流れてくるエレクトロニカと、電車の一定の振動が心地良い。

何も感じずに心を落ち着かせれば、それはさながら小さな瞑想だ。

 

スマホへの電波が悪くなったらしく、唐突に音楽が途切れた。

 

目を開くと、そこは社会の縮図だった。

 

疲れ切ったサラリーマンの背中。

苦しそうに顔を歪めるおじさん。

大人達に紛れて辛そうな子供。

 

皆どこかを目指している。

それはきっと、どこかの誰かさんが勝手に作ったもので、そこに行くことが良しとされるもの。

早くそこに到着しようと、そこへと運んでくれる電車に我先に乗ろうとする。

他人を押し退け、邪魔をしながら。

そうやって頑張って乗った車内では、同じ様に乗り込んだ人達と固い枠の中で押し合いへし合いを繰り広げ、ようやく目的地に着く頃には、心も身体も疲弊している。

 

皆、そんな日々を繰り返して皆生きている。

そうやって生きている。

そして自分も、その中に上手いこと収まって生きている。

それが良いか悪いかは人それぞれで、誰かが勝手に判断することは出来ないけれども、その事実だけは動かせない。

 

そんな事を思っていたら、止まっていたエレクトロニカが唐突に再開した。

どうやら電波が復活したらしい。

 

私はもう一度目を閉じる。

流れてくる音に身を委ねながら自分の世界に入っていくのは、あるいはそんな現実から目を背けたいからなのかもしれない。

仕事行きたくにゃー

が正直な今の気持ち。

 

毎週木曜日辺りになると仕事に行きたくなくなります。

今日が金曜日だったら良いのにと、毎回思います。

 

行きたくない理由を考えてみると、やっぱり面倒臭いが一番ですね。

人間関係が悪い訳でも、職場が遠い訳でも無いのですが、そもそもそうやって人間関係の中でコミュニケーション取って、やりたくもない仕事をするのが面倒臭い。

うーむ、もはや社会人失格。

 

とはいえ働かなければ生活出来ないし、他に食い口を見つけることも出来ないので、ひとまずは今を頑張りますよっと。

 

皆様も、お仕事面倒だったりするでしょうが、後2日頑張りましょう。

【感想】日本仏教史-思想史としてのアプローチ/末木文美士

日本の仏教史について、思想というアプローチから解説した本。

 

「思想というアプローチから」とはどういう意味かと言うと、ただ「6世紀前半に仏教が伝来して…」と史実を述べるのではなく、その裏にある当時の人の思想を見るということ。

例えば、上の例で言えば、「仏教が伝来した時、古来の神の一種として見做されていたが、戒律などの制度面が優れていたため、律令国家の礎となった」といった具合。

そんな調子で、様々な文献を参照しながら、細かく、でも分かりやすく日本の仏教が解説されています。

 

本書を読んで一番に思ったことは、日本の仏教は異様だということ。

そして、日本人はカスタマイズが好きだということ。

 

原始仏教は、極端に言えば「渇愛を滅して解脱せよ」と言っているだけでとてもシンプルなものです。

にも関わらず、日本の仏教では、やれ「宇宙の真理は大日如来でそれは我々の身の周りに常にいるがその真理は秘められている」だの「念仏を唱えれば極楽に行ける」だの、色々な教え、宗派に別れていて、原始仏教の影も形もありません。

キリスト教でもイスラム教でも宗派というものはあると思いますが、日本の仏教程多様なものはないのではないでしょうか。

 

これは、日本人が仏教を自分達の時代背景や政治思想に合わせてカスタマイズしていったから。

末法の世になれば集勢を救うために念仏を唱えればオッケー位のものを作り、それが行き過ぎればやっぱり修行は必要だとか言い始める。

そんな風に、自分達の都合に合わせてカスタマイズを繰り返していった結果、様々な宗派が生まれ、多様なものになったのだと思います。

一方で、だからこそ「仏教は難しい」という印象を一般の人に与えてしまっているのだと思います。

 

カスタマイズ好きというのは現代でもそうですね。

システムもイベントも、何でも取り入れてカスタマイズする。

それは日本人の一種のお家芸なのかもしれません。

 

 

この本は、あくまで日本人がどう考えて仏教をカスタマイズしていったのかが解説されていまて、各宗派の教えについてはそれ程細かく載っていません。

なので、本書を読み終わっても各宗派の特徴や教えを理解出来るということはありません。

また、日本の仏教史を全て理解する事も出来ません。

 

ただ、日本人がどういう考えでもって仏教をカスタマイズして、今の姿に行き着いたのか、その流れを知り、私達の身近にある仏教について気付くきっかけとなる本です。

 

 

大学受験で日本史専攻だったにも関わらず一切覚えていない私にとっては、仏教という視点から日本史を学び直す良い機会となりました。

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)