緩くいこうぜ、人生長いんだ。

世の中どうでも良いことばかりだよ

現在地を知る

自分の現在地を知ることは大事だと思う。何をするにもまず、自分は今どこにいて、これからどこに向かうのかを確認しなくてはならない。そしてそれは一回のみでなく、継続的に行うべきだ。

私の場合、現在地はこうである。筋トレが好き。ボルダリングもしている。両方共もっと上手くなって、身体を鍛えたい。翻訳の勉強を始めた。まだその世界に入りきれておらず、移行期間。だから頭がこんがらがるし、コツも感覚も掴めていない。将来的には英語を活かした仕事をしたい。株の勉強もしている。しかし、まだまだ始めたばかりなので上手く良い株を見つけることが出来ない。体系的に学びたい。

現在地を知ることは、自分の能力や不足点を客観的に把握し、次に何をするべきかを明確にすることに役立つ。筋トレであれば、次に鍛えるべき部位や強度を調整することができる。翻訳であれば、次に勉強するべき分野、取るべき行動が分かる。株も同様である。

これが分からずただ闇雲に動こうとすると、見当違いの方向に進んでしまったり、無駄な労力を費やしてしまうことになる。だから、必要最低限の労力で前進するためには、常に自分の現在地と目指すべき方向を確認するべきなのだ。

なんてことを、偉そうにも書いてみたのだが、つい最近気付いたことである。それもまた私の現在地である。ここから、私は前に進んでいくのである。

なんとなく実践力

最近、なんとなく実践力が付いたような気がする。つまり、知識を得るだけではなくそれを使う力が付いたような気がするのだ。

これまでの私は、情報や知識を「得る」ことに重きを置いていた。逆に言えば、それらを使うことは軽視していた。だから、表面上は知っていたり、話すことは出来ても、実際には空っぽということが多々あった。

翻って最近は、それらを自分のものとして使えるようになることに重きを置き始めているように思う。例えば翻訳であれば、学んだことをそのままにせず、復讐したり次の課題に反映したりしている。筋トレであれば、栄養素やインターバルについて学ぶだけでなく実践している。他にも、株式投資もそうだし、最近ハマっている欅坂46について知ろうとすることも同様である。特に意識してそうしようとしている訳ではなく、なんとなくそう思う。

とはいえ、まだその程度は低いもので、より高度な実践を行うレベルには達していない。教科書的なものを参考にしながらその真似をしている位である。しかし、全てはそこから始まるのだと思う。まずは低いレベルで慣れて、コツを掴んで、自分なりにしていく。そんな風に、少しずつ前進できれば良いのである。

ゲシュタルト崩壊

翻訳の課題を行うに際し、訳抜けや文法間違いが無いように気を付けると、ゲシュタルト崩壊を起こしてくる。

例えば、動詞一つをとっても、それが自動詞か他動詞かによって前置詞が必要かどうかが変わる。さらに、前置詞が必要だったとして、正しい目的語は何かを調べなくてはならない。そんな訳で、日英で単語を調べ、英英でニュアンスを調べ、英日で前置詞を知る、というような事をしなくてはならなくなってくる。これがとても面倒臭い。しかし、やらなければ正しい姿が分からない。そんなことをしていると、今まで自分が正しいと思っていたことが疑わしくなってきて、何が正解か分からなくなってくる。自分が今までいかに適当に英語を使ってきたかということが露呈している。反省である。

 

他にも、現在完了の使い方が分からなくなったり、訳文が原文の意図を忠実に反映しているか、余分な訳を加えていないかなど、色々な所に気を配るから、より一層訳が分からなくなってくる。これも初学者故の苦しみなのだろうか。

ただ、先日久々にカウンセリングに行って、そんな事を話したら、カウンセラーから「でも、楽しそうじゃない?」と言われたように、実は意外と楽しんでいるのかもしれない。自分ではよく分からないが。

ということで、一歩一歩翻訳というものに慣れていきたいと思う今日この頃なのである。

愚直に

貴重な土日休み、気付いたらこの時間である。土曜日は翻訳のスクールに行き、その後お家でもちもちしていたら終わった。本日も、朝から翻訳の課題をやったりTOAST MASTERSの準備をしているだけで終わってしまいそうである。まぁ、台風が来ているので他にやることもないのだが。

翻訳の勉強が本格化してきて、なかなか苦しんでいる。まだ二回しか授業は受けていないのだが、普段やっている英訳や和訳と勝手が異なるので戸惑い、苦しむ日々である。

「筆者の意味、意図まで汲み取って原文に忠実に訳す」という原則が翻訳にはあるのだが、「表面だけをなんとなく捉えて分かったふりをする」私には真逆のこと過ぎてなかなか上手くいかないものである。

さらに、これまで英語の文法的な勉強なんて全くやってこなかった私が、初めて文法書なんかに手を出して読み出したものだからますます頭はパンクである。

そんな上手くいかない日々を送っていると、どうにもやる気を失ったり、向いていないなんて思いがちであるが、そんな時にふと頭をよぎったのは「勉強の哲学」である。

この本には、勉強とは本質的にどういうことであるかが書いてあるのだが、その中核として「勉強とは世界の移行である」という考え方がある。これまで自分が慣れ親しんできた世界から、新しい世界に移行するわけであるから、その狭間では慣れない言葉遣いや知識に苦しむことがある。しかし、それを過ぎれば新しい世界の景色が見えるようになる、ということである。

まさに今の私がそうで、これまで見てこなかった文法や翻訳という世界に苦しんでいる時期である。そうと分かれば、必要な苦しみであるはずだし、いずれは乗り越えられるものであるはず。故に、今はひたすら愚直に頑張るしかないのだ。

とはいえ、毎週土日が翻訳で終わってしまうのはなかなか辛いものがある。天気が良ければ、外に遊びに行きたいものである。登山なんかも、行きたいなぁ。

 

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

Ordinarly people

私は普通の人である。だが、それと同時に特別な存在でもある。

高校生の頃から、自分は特別であると、あるいはそうありたいと思ってきた。他人とは違うこの自分を意識したくて、他人とは違う感性を持ってみたり、意識高い系の行動をしてみたり。だが、いくら見せかけを飾ってみたところで、中身が伴っていない訳なので、どうにも虚しく、空っぽな自分が存在するだけであった。そうやって行動することによって、多くの人に不快な思いを抱かせたり、馬鹿にされたり、恥ずかしい思いをしてきたように思う。他人から見ても痛々しい程であったと思う。

今はどうかと言うと、自分は普通の人間であると自覚している。何の特別な才能なんてないし、ありきたりなサラリーマン生活を送っている。過去に就活のいざこざがあったとはいえ、それらは清算して(しきってはいないけど)いる。毎朝起きて、会社嫌だなぁなんて思いながら会社に行って、会社を辞めるための勉強をして、お金を稼ぐための株の勉強もして、会社に行けば面倒事に巻き込まれて、疲れて家に帰れば妻がいて阿呆な話をして笑って、気持ち良くお布団に包まって寝る。そんな生活を送る普通の人間である。

そんな普通な私だけれども、同時に私は特別である。そんな人生を送っているのは私だけで、その中で抱く感情や、次はどうしようと思いながら生きる日々は私だけのものである。私にしかできない事を毎日し続けているのである。その意味で、私は私以外であり得ず、特別なのである。

きっと、全ての人がそうなのだと思う。どこかで特別になりたいと願ったり、もがいたりしながら日々を生きていて、それでもどうにもならない自分に苛立ったり、嫌気が差したり。きっと、それが普通なのだ。そうやって日々を送ること自体が普通なのだ。でも、そんな日々を送るそれぞれの人は、紛れもなく特別で、唯一無二なのだ。表面ではなく、本質として特別なのだ。そんな意味で、私もあなたも、普通の人だ。

吹き飛ばせ

昨日はなんとも最悪な日であった。21時までやることをやって頑張っていたにも関わらず、上司からはなにやってるの的なことを言われ、やっとこさ最寄り駅に着いたと思ったら自転車がパンクしていた。完全にパンクしていたので、家に帰るまでに3回も空気入れをしながらの帰宅。もはや苛々と憎しみマックスで機嫌は最悪である。

そのまま寝るのも癪に障ったので、そのまま走りに行くことにした。夜22時半、真夜中の逃避行である。

河原まで出て、ただひたすら走る。その内、気持ちは走ることに集中してくる。余計な感情は汗と共に流れていき、ただ走る自分と流れていく景色があるだけになる。途中に公園があったので、運ていを使って懸垂をする。背筋にかかる負荷と、姿勢を維持する腹筋が心地良い。たったの30分程であったが、私の気持ちは見違えるほどにスッキリした。

嫌な気分になった時、するべきことは溜め込むことではない。吹き飛ばすのだ。中でも、身体を動かすことは最適である。

人の身体は動かすためにある。ならば、動かしてやって、本来の動きをさせれば、心は自然に帰るに違いないのだ。

憂鬱は終わるか

ここ2, 3週間は忙しい。毎日職場を出るのは20時位だし、時には22時になったりする。そんな忙しさも、ようやく今日で一段落を迎えそうである。しかしながら、まだ面倒臭いことはいくつか残っているので、それらを片付けなければならない。本日はそれが憂鬱の元である。

そもそも仕事はやりたくない訳であるが、そんな中でも自分が最も嫌いな仕事が最後に訪れるというのはなんだ、嫌がらせか。ここ最近はいつもそうである。ようやく一段落したと思ったら、あの人からはこれをやってくれと言われ、この人からはまた別のことをやってくれと言われる。あるいは「信頼されている証」なんて糞みたいな褒め言葉で言いくるめる人もいるかもしれないが、知ったことか。私にとってそれは苦痛でしかなく、精神を乱すだけのことなのである。人の気も知らずに勝って言うんじゃない。

とはいえ、やらなければならないことはやらなければならない。でなければお金が貰えない。そんな訳で、今日もクソほどに苛々しながら働く訳だが、早く人と関わらない仕事に就きたいものである。