緩くいこうぜ、人生長いんだ。

世の中どうでも良いことばかりだよ

一歩

遂に週一ですらブログを更新しなくなった。毎日勉強に忙しく、さらに業務も忙しい時期で、基本的に毎日遅くなるため、書く時間がないのだ。元々更新頻度は気にしないというスタンスで復帰したのだが、せっかく続けてきたものがないがしろになってしまうのは心苦しい。

ようやく正式に申し込みが終わったので、一体全体なんの勉強をしているのかを明らかにする。先月辺りから、翻訳の勉強を始めたのだ。翻訳とは言っても、書籍や映像ではなく、産業翻訳、つまりビジネス文書などの翻訳である。言語は英語、双方向ある程度できるようになりたいと思っている。

TOAST MASERSに通っている時点でお察しかもしれないが、実は私は帰国子女で英語が得意である。とはいえ、海外に住んでいたのは小学生の頃だったので語彙力は壊滅的である。翻訳をするにあたり、ベースとなる語彙力はかなりの程度必要なので、先月から英検1級の勉強を始めた。日常的に使わない英単語に苦しみ、長文を読んではストレスを溜めているので、ブログを書く暇がないのである。

さて、翻訳家を目指そうと思った経緯は、率直に言えば今の仕事が嫌だからである。過去に何回か書いたが、今の仕事は望んで就いたものではない。なので、仕事に対する意欲というか、根底にあるべきエネルギーがないのである。そんな事をこれから先60年とか続けるのは無理なので、転職をしようと考えていた。しかしながら、だからといってやりたいことも特になく、何か誇れるものもない。となった時に、TOAST MASTERSで私のメンターをしてくれている通訳の方の話を聞いている中で、通翻訳という言語を武器にする仕事に興味を持ったのである。幸いにして英語は得意だし、物を書くのも苦ではない。なにより、フリーの翻訳家として独立できれば、夢の在宅勤務が可能となるのである。そんな訳で、翻訳スクールのレベルチェックなどを受け、ようやく通うスクールへの申し込みが済んだのである。

ここから半年は、週一でスクールに通い、翻訳を学んでいく。その中で、やっぱり翻訳は向いていないと思うかもしれないし、また別の考えを抱くようになるかもしれない。しかしながら、どんな形であれ一歩前に進んだ事を、今は喜び、大事にしていこうと思うのだ。

静動

最近同期と一緒にボルダリングに行っている。なかなか難しい課題にチャレンジしているので、手の皮はボロボロだし、身体も擦り傷だらけである。高校生以来に身体を傷付けている訳だが、出来ない課題をクリアできた時の達成感は素晴らしいものである。

ボルダリング中は、日々の生活ではまず使わない筋肉や動きを使う。その中で私が苦労しているのが、勢いをつけるということである。普通に考えればなんてことはないのだろうが、日々勢いを殺して筋トレをしている人間としては、これがとても難しいのだ。

筋トレでは、筋肉に最大限の負荷をかけるために勢いを殺す。具体的には、動きの前後で必ず身体を止め、筋力のみを使って身体を動かす。勢いをつけてしまっては筋肉への刺激が減り、トレーニング効率が下がるのだ。いわば、静の動きが要なのである。(ただし、勢いをつける筋トレもある。それは目的の違いであり、どちらが良い悪いというものではない。)

それに対してボルダリングでは、届かないホールドを掴むために、勢いをつけなければならない場面が多々存在する。いわば、動の動きが必要なのである。そんな場面でも普段の筋トレのノリでゆっくりやろうとすると、届かない、掴めない、疲れる、クリアできない、という流れになってしまうのである。

同じ運動とはいえ、身体の動かし方、意識するべきポイントは大きく異なる。そんな事を思っていると、私はどうにも勢いをつけるのが苦手であるようだ。日々の生活の中でも、「よし、やるぞ!」みたいにやる気を出すことはまずない。なるべくフラットになるように、日々のルーティンを決め、無理の無いようにコントロールする。仕事でもそうで、「ここが踏ん張りどころ!」みたいなのは大嫌いである。毎日同じような感じで動いていくのが一番やりやすい。

もしかしたら、ボルダリングは向いていないのかもしれない。だが、マイシューズを買ってしまったので、もう少しは頑張らざるを得ない。いや、楽しいから全然構わないのだが。もしかしたら、ボルダリングで動の動きを学ぶことで日々の生活にも変化が生まれるかもしれない。柄にもなく「よっしゃやるぞ!」とか言ってしまうようになるかもしれない。間違いなく、人は色々なことから学べるのだ。そんなことを夢想しながら、今日も壁に立ち向かうのだ。

かなり間が空いてしまった。書きたいことが無かった訳ではないのだが、いかんせん毎日往復の電車、帰宅後も勉強をしていると書いている時間がないのだ。何の勉強をしているかはもう少ししたら書く。今書くと有限不実行の可能性もあるからである。発した言葉には責任を持たなければならぬ。既に幾つか不義を犯している身としては、今回は少し気を付けたいのだ。

ここ最近は、大学の友人の結婚式が二週連続であった(一つは二次会からであるが)。他人の結婚式を見ていると、自分の結婚式を思い出して、あぁ良かったなぁなんて思ったりするのであるが、もう一度やろうとは思わない。誰かが私達の願いを全て聞いてくれて、お金の心配もせずに好き勝手出来るのであればやりたいとは思うのだが。誰かそんな願いを叶えてはくれないものだろうか。

久々に大学の友人と会うと、なかなか皆変わっているものである。いや、根本の部分は変わらないのだが、仕事を変えていたり、転勤したり、結構真面目な奴が風俗通いしていたり、そもそも結婚していたり。当たり前のことなのであるが、時の移ろいを感じたりするものである。あぁ無常。

世の中の全ては移ろいゆくものである。そんな当たり前の事実を、自分で書いておいて忘れていたような気がする。今の私は去年の私とは違うし、来年の私はきっとまた違う。極論言えば、どうでもいいのである。人がどうだとか、世界がどうだとか、自分がどうだとか、そんなことはどうでもいいのである。皆変わる。確かなのは今この一瞬だけである。今日は天気が良い。それだけで良いではないか。

2秒

昨日は、久々にTOAST MASTERSでスピーチを行った。

内容は仏教入門。仏教の成り立ちと、原始仏教で説かれた悟りとは何かということに対する超概要。夏休みなどで約一月ぶりの参加ということで、しっかりと内容を詰めて練習した上で本番に臨むことが出来た。ちなみに、TOAST MASTERSはアメリカ発祥ということで、宗教や政治に関する話題は扱いが難しい。今回は、事実の紹介であるということを強調し、あくまで紹介に務めた。

結果は、7分半という時間制限に対して2秒オーバーしてしまった。TOAST MASTERSは、毎例会で各スピーチの中から最優秀を決めるのであるが、この時間オーバーのせいで私は候補から外れてしまった。例会後には多くのメンバーから面白かった、もっと知りたいという声を貰ったので、投票の対象外となったのはとても痛かった。

結果に関しては、時間をオーバーしたのは事実で、それは私の話すペースや内容のせいなので仕方のないことと受け止めている。しかしながら、2秒である。たったの2秒。されど2秒。 ほんの少しペースを早めたり、ほんの一呼吸置かないだけで調整出来た時間。本当に一瞬としか言いようのない時間。しかし、そんな些細な時間が大きな結果を生んだ。まさに、縁起である。

これは、スピーチに限った話ではない。人生何があるか分からない。それは必ずしも大きな出来事や期間によるものとは限らない。ほんの些細な時間、出来事で物事が大きく変わることもあるのであろう。それらはきっと予想することが難しく、気付いたらいつの間にか起こっている類のものであるかもしれない。しかし、私達の人生はそういったものによって大きく結果を揺さぶられるのである。

全てを完全に防ぐことは出来ない。せいぜいが備えるだけである。今回であれば、時間をオーバーしないように練習の段階から時間感覚を身に着けておく必要があった。他のことだってそうである。備えあれば憂いなし。日頃から何が起こっても大丈夫なように精一杯の準備をしておく必要があるのだろう。難しいが。

日々学ぶ事多しである。また次回も頑張ろう。

逃げてみる

空気から粘りつく様な湿気が消え、暑いとはいえ陽光と風の心地良さを感じることの出来る季節となった。夏程のエネルギーを感じることは無いが、このこれはこれで過ごしやすく良いものである。

最近はブログを更新する機会が減っている。特別書くことがないというのはもちろんなのだが、毎日の通勤の時間を勉強に充てるようになった事が大きい。何の勉強か書いて早々ストップしてしまってはなんとも有限不実行な野郎になってしまうので、詳細はもう少し流れに乗ってから書こうと思う。

なんにせよ、勉強をしているので、ブログを書く暇が無いのである。私は基本的に一つの事にしかエネルギーを注ぐことが出来ないので、何かをやっている間は他の事をすることが出来ない。それ故、勉強にエネルギーを注いでいると、ブログにまで気が回らないのである。とはいえ、こうしてたまには書いてみると、気分転換になって面白い。

勉強にせよ筋トレにせよ、究極的には全て現実逃避である。ゲームも読書もなんだって同じである。目の前の嫌な領域から目を逸らし、興味のある分野に目を向ける。その間は煩わしさも葛藤もい顧客もなくなり、自分だけの世界に入ることが出来る。

人によっては、それを逃げだとあざ笑うだろう。しかし、逃げて何が悪いのか。立ち向かうことは大事である。しかし、24時間365日立ち向かい続けていては身が持たない。ましてや、立ち向かいたくもないものに対してであれば尚更である。逃げるからこそ、無駄なダメージを受けることなく自分を回復させる事が出来るのだ。

どうにも日本は立ち向かうことへの美徳が強すぎる様だ。嫌なら嫌と、無理なら無理と言えるようになれば、皆もっと幸せになれるのだろうに。

【読書記録】勉強の哲学

偶然書店で見つけた本書。最近Twitterでも話題のようなので、ためしに読んでみた。なんだか胡散臭い本だと思いながら読んでみたら、その実中身はかなり深い哲学書。勉強というものを言語論、世界論の立場から深く、迂遠に語っている本。

この本は、いわゆる「勉強のハウツー」ではない。もっと根本的に、広く、「勉強とは何か」を語っている。そして、それに基づいて最後の方に少しだけ具体的な勉強方法が記載されている。著者の考えを私なりにまとめると以下のようになる。

 

勉強とは、ある世界から他の世界への絶えざる移行である。人間は日々、無意識の内にある世界の常識(コード)に支配されて生きている。コードはその世界の中でしか存在、共有されないものであり、それらは言語により規定されている。その世界のコードが言語に意味付けられ、それを共有することによりその世界の一員たり得ているのである。

勉強とは、そのコードに疑いを持ち、抜け出し、別のコードへと自らを移行させていくことである。つまり、ある世界で認識されているコードから自らを引き剥がし、別の世界のコードを身に付けるということである。

方法は二つ。一つ目はアイロニーアイロニーとは、物事を批判的に見ることで、現在共有するコードを疑うことである。アイロニーを通じて、人は自らが無意識の中に持っているコードを破壊することが出来る。言ってみれば、垂直的深化である。

二つ目はユーモア。ユーモアは、コードとコードを繋げることである。ある世界のコードと別の世界のコードの共通点を見つけて結び付けることである。ユーモアを通じて、人はコードとコードを繋げ、移動することが出来る。言ってみれば、水平的汎化である。

勉強とは、このアイロニーとユーモアを絶えず繰り返すことである。つまり、物事に対して垂直的に深堀りをし、また水平的に移動する。こうすることで、複数のコードに身を置くことが出来る。

原理的に勉強に際限はない。しかし、だからと言って無尽蔵に勉強することは出来ない。だからこそ、ある程度の所で、自分が「まぁ良いか」と思える所で勉強を中断することが大切になる。これを勉強の有限化と言う。勉強を有限化した段階で別のコードへ移行し、また戻ってくる。そんな繰り返しが、勉強なのである。

 

他にも色々と書いてあるのだが、まとめると上記のような内容になると思う。読んでいてとても納得がいったのが、「勉強とは、世界から世界への移行」という部分。確かに、私も仏教や筋トレを学ぶ中で、それまでは知りもしなかった事柄を知るようになった。そうなると、それまで見えていたものが全く別の見え方をするようになった。

例えば、面倒臭い仕事に対して、仏教を知る前は常に心を捉えられて精神を摩耗していた。しかし、仏教の無常や縁起の法則をしると、それらはあくまで一時的なものであり、永遠ではないという風に捉えられるようになり、心が楽になった。

他にも、筋トレを学べば日々の食事も大事な栄養摂取となるし、英語を学べば日本語との対比が見えてくる。

そんな風に、別の世界のコードを学ぶことにより、一つの物事を様々な見方で見るようになることが、勉強というものの本質なのだと思う。だからこそ、大学の勉強なんかは、あれやこれや色々取ると面白かったのだと思う。

社会人になると、勉強は試験勉強位しか無いので、その面白さから遠く離れてしまう。しかし、本書にあるような見方で勉強を捉えると、日々新しい知識を取り入れるのはとても楽しいものになると思う。

 

本書は、正直言って理解しやすくはない。概念的な話題が多く、理解するのに時間がかかる。私自身、二週目にしてようやく内容をなんとなく理解した。しかし、クドいくらい説明が書かれているにも関わらず読みやすいので、何回か読むことをオススメする。本書には、それだけの価値があると思う。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

 

Good-bye summer

9月に入り、ここ最近は非常に涼しく、なんとも秋めいてきた。どうやら夏ももう終わりらしい。そんな中、私の夏休みも本日で終わりとなった。

今年の夏休みは今までの人生の中でも最も有意義なものだったと言える。大分一人旅から始まり、木曜日にはついにマイボルダリングシューズを買い、金曜日から本日までは妻と箱根にのんびり旅行に行っていた。

仕事から離れ、頭の中を空っぽにし、自分がやりたいことと向き合った一週間。特に意識した訳ではないが、これからの自分について色々と考えを整理出来たと思う。

 

夏は特別な季節だ。「ひと夏の恋」なんかとよく言うように、夏は非日常との出会いがある季節だ。それは人かもしれないし、ものかもしれない、あるいは経験かもしれない。いずれにせよ、ひと夏の何かは、必ず人を成長、変化させる。

それ故に、夏の終りは寂しさが漂う。特別なエネルギーを持った夏が過ぎ去る時のそのエネルギーの残滓が空気中に漂い、まだ消えたくないと叫んでいるようだ。始まりのあるものには必ず終わりが訪れる。そんな当たり前のこの世の摂理に抗いたくなる程の、名残惜しさを感じながら、夏の夜は過ぎていく。

 

明日からまたつまらない仕事の日々が始まる。しかしきっと、私は夏休み前の私とは異なっている。頭も身体もスッキリして、ウェイトは軽く、自分の未来を見据えて生きていこう。

また来年の夏、私は何を思っているのだろうか。そんなことを思いながら、今年の夏が過ぎ去っていく。