緩くいこうぜ、人生長いんだ。

世の中どうでも良いことばかりだよ

2秒

昨日は、久々にTOAST MASTERSでスピーチを行った。

内容は仏教入門。仏教の成り立ちと、原始仏教で説かれた悟りとは何かということに対する超概要。夏休みなどで約一月ぶりの参加ということで、しっかりと内容を詰めて練習した上で本番に臨むことが出来た。ちなみに、TOAST MASTERSはアメリカ発祥ということで、宗教や政治に関する話題は扱いが難しい。今回は、事実の紹介であるということを強調し、あくまで紹介に務めた。

結果は、7分半という時間制限に対して2秒オーバーしてしまった。TOAST MASTERSは、毎例会で各スピーチの中から最優秀を決めるのであるが、この時間オーバーのせいで私は候補から外れてしまった。例会後には多くのメンバーから面白かった、もっと知りたいという声を貰ったので、投票の対象外となったのはとても痛かった。

結果に関しては、時間をオーバーしたのは事実で、それは私の話すペースや内容のせいなので仕方のないことと受け止めている。しかしながら、2秒である。たったの2秒。されど2秒。 ほんの少しペースを早めたり、ほんの一呼吸置かないだけで調整出来た時間。本当に一瞬としか言いようのない時間。しかし、そんな些細な時間が大きな結果を生んだ。まさに、縁起である。

これは、スピーチに限った話ではない。人生何があるか分からない。それは必ずしも大きな出来事や期間によるものとは限らない。ほんの些細な時間、出来事で物事が大きく変わることもあるのであろう。それらはきっと予想することが難しく、気付いたらいつの間にか起こっている類のものであるかもしれない。しかし、私達の人生はそういったものによって大きく結果を揺さぶられるのである。

全てを完全に防ぐことは出来ない。せいぜいが備えるだけである。今回であれば、時間をオーバーしないように練習の段階から時間感覚を身に着けておく必要があった。他のことだってそうである。備えあれば憂いなし。日頃から何が起こっても大丈夫なように精一杯の準備をしておく必要があるのだろう。難しいが。

日々学ぶ事多しである。また次回も頑張ろう。

逃げてみる

空気から粘りつく様な湿気が消え、暑いとはいえ陽光と風の心地良さを感じることの出来る季節となった。夏程のエネルギーを感じることは無いが、このこれはこれで過ごしやすく良いものである。

最近はブログを更新する機会が減っている。特別書くことがないというのはもちろんなのだが、毎日の通勤の時間を勉強に充てるようになった事が大きい。何の勉強か書いて早々ストップしてしまってはなんとも有限不実行な野郎になってしまうので、詳細はもう少し流れに乗ってから書こうと思う。

なんにせよ、勉強をしているので、ブログを書く暇が無いのである。私は基本的に一つの事にしかエネルギーを注ぐことが出来ないので、何かをやっている間は他の事をすることが出来ない。それ故、勉強にエネルギーを注いでいると、ブログにまで気が回らないのである。とはいえ、こうしてたまには書いてみると、気分転換になって面白い。

勉強にせよ筋トレにせよ、究極的には全て現実逃避である。ゲームも読書もなんだって同じである。目の前の嫌な領域から目を逸らし、興味のある分野に目を向ける。その間は煩わしさも葛藤もい顧客もなくなり、自分だけの世界に入ることが出来る。

人によっては、それを逃げだとあざ笑うだろう。しかし、逃げて何が悪いのか。立ち向かうことは大事である。しかし、24時間365日立ち向かい続けていては身が持たない。ましてや、立ち向かいたくもないものに対してであれば尚更である。逃げるからこそ、無駄なダメージを受けることなく自分を回復させる事が出来るのだ。

どうにも日本は立ち向かうことへの美徳が強すぎる様だ。嫌なら嫌と、無理なら無理と言えるようになれば、皆もっと幸せになれるのだろうに。

【読書記録】勉強の哲学

偶然書店で見つけた本書。最近Twitterでも話題のようなので、ためしに読んでみた。なんだか胡散臭い本だと思いながら読んでみたら、その実中身はかなり深い哲学書。勉強というものを言語論、世界論の立場から深く、迂遠に語っている本。

この本は、いわゆる「勉強のハウツー」ではない。もっと根本的に、広く、「勉強とは何か」を語っている。そして、それに基づいて最後の方に少しだけ具体的な勉強方法が記載されている。著者の考えを私なりにまとめると以下のようになる。

 

勉強とは、ある世界から他の世界への絶えざる移行である。人間は日々、無意識の内にある世界の常識(コード)に支配されて生きている。コードはその世界の中でしか存在、共有されないものであり、それらは言語により規定されている。その世界のコードが言語に意味付けられ、それを共有することによりその世界の一員たり得ているのである。

勉強とは、そのコードに疑いを持ち、抜け出し、別のコードへと自らを移行させていくことである。つまり、ある世界で認識されているコードから自らを引き剥がし、別の世界のコードを身に付けるということである。

方法は二つ。一つ目はアイロニーアイロニーとは、物事を批判的に見ることで、現在共有するコードを疑うことである。アイロニーを通じて、人は自らが無意識の中に持っているコードを破壊することが出来る。言ってみれば、垂直的深化である。

二つ目はユーモア。ユーモアは、コードとコードを繋げることである。ある世界のコードと別の世界のコードの共通点を見つけて結び付けることである。ユーモアを通じて、人はコードとコードを繋げ、移動することが出来る。言ってみれば、水平的汎化である。

勉強とは、このアイロニーとユーモアを絶えず繰り返すことである。つまり、物事に対して垂直的に深堀りをし、また水平的に移動する。こうすることで、複数のコードに身を置くことが出来る。

原理的に勉強に際限はない。しかし、だからと言って無尽蔵に勉強することは出来ない。だからこそ、ある程度の所で、自分が「まぁ良いか」と思える所で勉強を中断することが大切になる。これを勉強の有限化と言う。勉強を有限化した段階で別のコードへ移行し、また戻ってくる。そんな繰り返しが、勉強なのである。

 

他にも色々と書いてあるのだが、まとめると上記のような内容になると思う。読んでいてとても納得がいったのが、「勉強とは、世界から世界への移行」という部分。確かに、私も仏教や筋トレを学ぶ中で、それまでは知りもしなかった事柄を知るようになった。そうなると、それまで見えていたものが全く別の見え方をするようになった。

例えば、面倒臭い仕事に対して、仏教を知る前は常に心を捉えられて精神を摩耗していた。しかし、仏教の無常や縁起の法則をしると、それらはあくまで一時的なものであり、永遠ではないという風に捉えられるようになり、心が楽になった。

他にも、筋トレを学べば日々の食事も大事な栄養摂取となるし、英語を学べば日本語との対比が見えてくる。

そんな風に、別の世界のコードを学ぶことにより、一つの物事を様々な見方で見るようになることが、勉強というものの本質なのだと思う。だからこそ、大学の勉強なんかは、あれやこれや色々取ると面白かったのだと思う。

社会人になると、勉強は試験勉強位しか無いので、その面白さから遠く離れてしまう。しかし、本書にあるような見方で勉強を捉えると、日々新しい知識を取り入れるのはとても楽しいものになると思う。

 

本書は、正直言って理解しやすくはない。概念的な話題が多く、理解するのに時間がかかる。私自身、二週目にしてようやく内容をなんとなく理解した。しかし、クドいくらい説明が書かれているにも関わらず読みやすいので、何回か読むことをオススメする。本書には、それだけの価値があると思う。

 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 

 

Good-bye summer

9月に入り、ここ最近は非常に涼しく、なんとも秋めいてきた。どうやら夏ももう終わりらしい。そんな中、私の夏休みも本日で終わりとなった。

今年の夏休みは今までの人生の中でも最も有意義なものだったと言える。大分一人旅から始まり、木曜日にはついにマイボルダリングシューズを買い、金曜日から本日までは妻と箱根にのんびり旅行に行っていた。

仕事から離れ、頭の中を空っぽにし、自分がやりたいことと向き合った一週間。特に意識した訳ではないが、これからの自分について色々と考えを整理出来たと思う。

 

夏は特別な季節だ。「ひと夏の恋」なんかとよく言うように、夏は非日常との出会いがある季節だ。それは人かもしれないし、ものかもしれない、あるいは経験かもしれない。いずれにせよ、ひと夏の何かは、必ず人を成長、変化させる。

それ故に、夏の終りは寂しさが漂う。特別なエネルギーを持った夏が過ぎ去る時のそのエネルギーの残滓が空気中に漂い、まだ消えたくないと叫んでいるようだ。始まりのあるものには必ず終わりが訪れる。そんな当たり前のこの世の摂理に抗いたくなる程の、名残惜しさを感じながら、夏の夜は過ぎていく。

 

明日からまたつまらない仕事の日々が始まる。しかしきっと、私は夏休み前の私とは異なっている。頭も身体もスッキリして、ウェイトは軽く、自分の未来を見据えて生きていこう。

また来年の夏、私は何を思っているのだろうか。そんなことを思いながら、今年の夏が過ぎ去っていく。

山と如実知見

大分では、由布岳登と九重連山という二つ(九重連山は三つだが)の山に登った。山登りをしている中で、なんとなくではあるが、原始仏教の教えにある「如実知見」を感じたので頑張って書いてみる。

 

原始仏教の世界では、人間は苦に満ちた世界に生きていると言う(一切皆苦)。そして、苦の原因は人間の渇愛、欲望であるという。

人間は様々な物事に対して自らの渇愛に従って意味付けをし、その中で生きている。それ故に人間は苦の世界から逃れられないのだ。仏教において、悟りに至るためにはこの渇愛を滅する必要がある。自らの意味付けを無くして物事をありのままに見ることが出来るようになった時(如実知見)、人は悟る事が出来るのである。

仏教の教えとは、極論この渇愛を滅するための方法論なのである。

 

由布岳を歩いていて、休憩がてらふと立ち止まった時、私は初めて静寂を感じた。何も聞こえないという訳ではない。風の音、虫の羽音、自らの息遣いが聞こえる。しかし、それらはすぐに広大な空間に吸い込まれ、反響もなく消え入っていく。後に残るのは耳が痛くなるような静けさだけ。初めての感覚に驚きつつも、これが静寂なのだと知った。

同時に、その静寂はきっとずっとただそこにあるものなのだと思った。山は日々雲に覆われたり覆われなかったりして、森があって、花があって虫がいて、静寂で。ただ、それだけなのだ。そこには意味なんかなくて、ただそこに「ある」だけなのだと思う。それらを「綺麗」とか「静か」とか感じて意味付けをするのは人間で、つまり私達は私達が作った「意味の世界」に住んでいるのだと感じたのだ。

 

目の前に聳え立つ九重連山の巨大な山々を目の前にして抱いたのは、「綺麗」とかなんだとかいう感想ではなく、もっと巨大な、地球がストレートに指し示す圧倒的な存在への畏れだった。

圧倒的な存在を目の前にしてどうしようもない、これは敵わないというある種諦めにも似た感覚。それは多分、私が意味を作り出すことを放棄した瞬間なのだと思う。

畏れを抱いて意味を捨てる。それはつまり、人間としての世界を捨てることである。だからこそ、昔の人は山を神と崇め、修行の為に山に篭ったのかもしれない。それは、人間なんかには敵わない存在なのだ。

 

由布岳九重連山を通じて、私は如実知見の一端を垣間見た気がする。つまり、私は意味の世界に住んでいることを実感し、それを放棄する瞬間を経験したのだ。あるいは、これが太古の昔にブッダが感じた悟りの感覚なのかもしれない。 

有名な登山家が、スピリチュアルな世界に入っていく理由がなんとなく分かった。

 

偉そうな事を書いておきながら、その実私はまだ登山も仏教も初心者である。ただ、初心者だからこそ得られる感覚というものもあるもんで、今回のこれが今後に通じるものであることを願う。

そんな事を思いながら、次はどの山に登ろうかと、次の予定を楽しみにしている。

旅と無常

今回の一人旅にはテーマがあった。それは、「無常」である。

世間的にはネガティブな意味で捉えられがちな言葉であるが、元々は仏教用語で、その真髄を表した言葉、四宝印の一つ、諸行無常にある。意味は文字通り「常なるは無し」。つまり、「この世に絶対的に固定的な存在はない」、という意味である。私達人間も、この地球も、全て諸行無常なのである。

 

何故これを今回の旅のテーマに設定したかというと、私の日々の仕事の中で生まれた疑問に端を発している。

私はSEという仕事柄、日々スケジュールに縛られて生きている。プロジェクトの期間やフェーズが何よりも大事で、一日でも遅れればドヤされる、そんな日々を送っているのだ。そんな中で、一体スケジュールとは何のためにあるのだろうかと疑問に思った。最初に立てたスケジュールは絶対なのか。途中でそれを変更することは悪なのか。何故スケジュールから遅れることにそんなに目くじらを立てるのか。そんな疑問を抱えていたからこそ、その反発として、今回は敢えてスケジュールを立てない旅にしたのだ。

 

一人旅にしたのも、そのような縛りがないからである。一人でいるということは、誰にも気を遣う必要がないということである。どんなに酷いご飯を食べたって、何をしたって自己責任。逆に言えば、なんでも自分の思う通りである。だったら、その場の流れに身を任せて自由にやってみようと思ったのだ。だからこそ、最初から予定をカッチリ決めたり、ネットで美味しいご飯を調べたりせず、その場の情報を大事にしようと、ユースホステルという未知の領域にチャレンジした。オーナーや宿泊客から得た情報に重きを置いて自由に動いた結果は、今までの記事を読んでいただければ分かる通り、大成功である。

 

予定を立てるのも、先んじて調べるのも、物事を円滑に進めるために確かに大事ではある。だが、それを絶対的に固定的であると考えてしまうと、柔軟性を失い、それに縛られて楽しめなくなってしまう。自分で立てた思想に、自分が縛られて動けなくなってしまうのだ。それはきっと、何事においても本来の目的ではない。

とはいえ、仕事は気ままな旅とは違いお金やらなんやらが絡んでいるから、そこまで簡単に言うことは出来ないのも分かっている。だからこそ、日々私達を縛るスケジュールから逃れるために、たまには気ままで無常な旅をするのが良いのだと思う。 「人生に旅を」とはよく言ったものである。

 

冒頭に、無常は一般的にはネガティブな意味で捉えられていると書いた。しかし私は、なんとなくではあるが、「無常であるからこそ自由」なのだと思う。

常なるものが無いということは、何をしても良いということである。絶対的なルールなんてものは存在しない。それを作っているのは人間で、それに縛られているのも人間である。だが、一度無常を意識すれば、そこには縛るものなど何もない。あるのは自分の意志だけなのだ。

もちろん、制約はある。この世の全ては他者との関係で成り立っているので、それによる制約は必ずある。しかし、それらですら無常な訳で、永遠に続く真理なんてことはないのだ。

 

なんだかよく分からなくなってきた。どうやら私の考えも無常であるらしい。

さて、素晴らしき無常の旅は終わったが、まだ私の夏休みは続く。残りの日々もまた無常に気ままに過ごしていこう。

 

大分一人旅 四日目(最終日)

最終日の本日は、寺社仏閣が有名な国東半島に足を伸ばした。元々は全く行く予定の無かった場所だが、ユースホステルのオーナーと、他の宿泊客と話をしている中で、仏教に興味がある人間ならば行ってみなくてはならぬ、と思った次第である。

 

7:30

ユースホステルのオーナーにお礼を言って出発。もう少し見送り的なものがあるかと思いきや、あっさりとお別れ。向こうは仕事だからそんなものか。

 

8:00

別府市内の竹瓦温泉で入浴&近くでお土産購入。竹瓦温泉は温度が高くて長く入っていることが出来なかった。イメージとしてはより大衆的になった道後温泉。立派な佇まいとレトロな室内が魅力的だった。
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10:45

別府市内から車で一時間半かけて国東半島中央部の夷谷温泉へ。(写真忘れた)これまで経験した中で一番の山奥の中に突如として現れる温泉に驚いたが、泉質は柔らかく、温度も適当でとても心地良かった。少し昼寝をしてからここからいよいよ寺社仏閣巡りへ。

 

12:00

まずは木造の仏像が有名な富貴寺へ。

静かな森の中にあるお寺であった。中の阿弥陀如来坐像は写真撮影禁止なので写真は無いが、暗いお堂の中に静かに座り続ける姿がとても神秘的で、いつまでも見ていたくなった。

お寺の猫が可愛かった。
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12:30

続いても阿弥陀如来坐像が有名な真木大堂へ。(写真撮り忘れた)

若干舐めてかかってお堂に入った途端、巨大な阿弥陀如来坐像と大威徳明王像に圧倒された。博物館にあるレベルの大きさと迫力の仏像が安置され、参拝客(私だけ)を見守っていた。どうやら昔はかなり大きなお寺で、多くの人々の信仰を集めていたらしい。

途中、富貴寺から向かう途中の村の景色。これが本当に素晴らしかった。風に揺れる稲穂とどこまでも遠い空、そこに浮かぶ白い雲。日本の夏、という感じで感動した。感動のあまり車内で「ひぐらしのなく頃に」の「you」を流して雰囲気に浸っていた。
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13:00

最後は、熊野磨崖仏へ。

崖に掘られた石仏ということでワクワクしながら向かうと、まさかの急な石段。二日連続の登山で疲弊しきった脚には非常に堪えたが、なんとか登りきり、参拝。

ここだけはお寺が真言宗なので阿弥陀如来ではなく大日如来であった。が、長年の風化のせいか、大日如来特有の派手な衣装は全く見えなかった。
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仏像巡りが終わった後はこれまたオーナーに教えてもらった山香温泉センターへ行き、汗を流した。ひとしきりゆったりした所で空港へ行き、今この記事を書いている。

今回の旅は、本当に有意義なものだった。何が良かったかはまた明日書くが、本当に「夏休み」を満喫している感じがして心から楽しめた。だからこそ、今はとても寂しい気持ちで一杯である。だが、寂しいということは裏を返せばそれだけ楽しかったということである。この夏は、ひと夏の思い出として、間違いなく私の心に残るだろう。