緩くいこうぜ、人生長いんだ。

What matters is how you live your life.

私がそれを書かない理由

ネットには、必ずと言って良い程、「成功している人がしているたった一つの習慣」とか、「やりたいことを見つける為の七つのステップ」みたいな「○○する為の××の〜」みたいな記事がありますよね。

私は、そういう記事を読むのは好きですが、自分では書きたくないと思っています。

 

 

何故なら、書いたことが全ての人に当てはまるとは思わないから。

 

書いたことが全ての人に当てはまるとは限りません。

にも関わらず、そういった記事を書くと、さもこれだけやれば大丈夫!みたいな印象を与えます。

そのような誤解を、私は良しとしません。

例えば、「やりたいことを見つける習慣」なんかには、よく「お金も時間も自由にある場合にしたいことを考えよう。それがやりたいことだ。」なんてあります。

私の場合、答は「何もしないで気が向いた時に何かする。」で、そんなものでお金を貰えるとも思えません。

ならそれがやりたいことかと言われると、なんとも寂しくなります。

 

全ての人に当てはまる解なんて無い。

だから私は、自分の場合はこうだけどねというものは書きますが、それを方程式の様に書くことはしないのです。

これからも、そこは意識して書こうと思っています。 

桜坂

昨日は来週のTOAST MASTERSでのスピーチに向けて題材を考えるために外出。

頭を捻った結果、どうにか行けそうな題材が出てきました。

 

大まかに構成を考えて話す内容や順序を決めて、いざ細かい内容を決めようと思った所でお店を出て歩きながら考えることに。

歩きながら考えるというのが私の癖で、一人でひたすら歩きながらブツブツ呟いて考えをまとめていくんです。

今回も、構成に従ってひたすら内容を呟きながら歩くというなんとも不気味な姿になりました。

 

春真っ盛りということで、桜の名所「桜坂」へ。

ここはアニメ「CLANNAD」の聖地で、高校生の頃、本当に偶然見つけた場所です。

それ以来毎年気ままにやってきています。

今年も見事な桜のトンネルで、春真っ盛りだなぁと心が落ち着きました。

 

結局2時間で10km歩いていたらしく、今は足が痛いです…。

ようやく暖かくなってきたので、寒さから抜け出して新しい一歩を踏み出すのも良いのかもしれないと思ったりしました。
f:id:Mochiarion:20170410072847j:image

 

【読書記録】仏教思想のゼロポイント:「悟り」とは何か / 魚川祐司

以前紹介した「だから仏教は面白い!」の前の作品。

mochiarion.hatenablog.com

 

本作をベースに「だから〜」を書かれたので、内容としては「だから〜」よりも固くて学術的。

しっかりとした文章ながら読みやすく、「だから〜」を読んでからだと良い復習になります。

 

 

いずれまたまとめようと思いますが、簡単にゴータマ・ブッダの仏教の概要をまとめます。

 

ゴータマ・ブッダの仏教では、世界は「縁起」により成り立っていると説かれています。

つまり、原因があるから結果があり、原因が変われば結果も変わるということです。

私達が認識する世界の全てのものが、この「縁起」によって成り立っているので、私達は原理的に満足するということがありません。

何故ならば、少しでも原因が異なれば結果が変わり、それにより何かしらの不足が発生するからです。

この、「常に満足されない状態」の事を、「苦」と言います。

 

「苦」を生み出しているのは、私達の欲望、「渇愛」です。

渇愛」は何から生み出されるかと言うと、前世から蓄積された「業」です。

「業」は、生の中で行われた「渇愛」が起因の行為により蓄積され、その生が尽きた時に、新しい生を生み出します。

そして、また新しい「渇愛」を生み出し、廻り続けるのです。

これも「縁起」ですね。

この、「蓄積された業により生が生み出され続けるプロセス」のことを「輪廻」と呼びます。

この、「輪廻」と「苦」に満ちた世界が、私達が生きる「世界」なのです。

 

仏教の究極の目的は、「苦」の元である「渇愛」を滅尽し、「業」を発生させないようにして、「輪廻」の流れ、「世界」から脱する事です。

これを実現出来た境地の事を「涅槃」と言い、あらゆる「苦」が無い極楽であると言うのです。

 

以上が、簡単な概要です。

間違いがあればすみません。

 

本書には、上記以上の事が詳しく、分かりやすく書かれています。

ご興味のある方は是非読んでみてください。 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

 

 

スピーチの題材探し

今月から久々にTOAST MASTERSに復帰して、来週は約三ヶ月ぶりにスピーチをすることになっています。

なので、それに向けて原稿を準備したり練習したりしなければならないのですが、どうにも題材が決まらない…。

こんなことを喋りたいな、とは思うものの、いまいち「これだ!」というものに当たらないというか、確信が持てない。

 

例えば、「水樹奈々の素晴らしさ」について話そうかと思っても、「そもそも水樹奈々の良さを皆興味あるのか?」と思うし、「ドライブが私に与えた影響」なんてのも、「そんなに毎日ドライブしている訳じゃないしな…」と思ってしまう。

 

つまり、心配性、あるいは完璧主義過ぎるのだ。

自分の言うことはしっかり自分の考えや心に沿っているか。

あるいは、他人に説明出来るほどの知識や経験があるか。

多分、楽観的な人は「言いたければ言ってみよう!」となるのだが、私はそうはいかず、まず自分の中で納得して、理解して、確証を持てないと動けない。

だから物事に対するスピードが遅いし、挑戦出来る事も少ない。

 

ていう話題を話そうかと思ったけれども、果たしてそれが本当なのか分からないから、やっぱり話すことを躊躇ってしまう。

今週末には題材を見つけないとマズい…。

果たして無事に見つかるのだろうか…。

 

筋トレとスーツ

最近は真面目に筋トレをしているので、大分筋肉がしっかり付いてきました。

まだまだ胸板が薄い、肩周りがしょぼい、お腹に余分な脂肪が付いているとかはありますが、以前よりは確実に付いています。

 

筋トレをして身体が変わっていくのは達成感があってとても楽しいのですが、一つ問題があります。

それは、洋服、特にスーツが合わなくなること。

今朝も、今年の初めに買ったスーツを着てみると、ウエストは前より余裕があるにも関わらず、ズボンの太もも辺りが少しキツイ…。

座った時はパツパツです。

普段はジャケットを着ないので分かりませんが、こちらもどうなっていることやら…。

 

実はこの悩みは大学生の頃からあって、筋肉が付きやすく落ちやすい体質的に、一度買ったスーツは少し筋トレするとすぐに着れなくなってしまうのです。

それだけしっかり筋肉が付いているという意味なので、嬉しい悲鳴ではありますが…。

そんな話を奥さんにすると、生温かい目で見守られて終わります。

確かに、自業自得なんですがね…。

 

スーツのせいで筋トレを制限したくはない。

かと言って、新しいスーツを買うのも嫌。

ジレンマを抱えながら筋トレをし、日々スーツに身を包むのです。

筋トレとスーツの関係は難しいですね。

死にたいと思うこと

最近、死にたいと思うことが減った事に気付いた。

 

きっかけはAmazarashiさんの「穴を掘っている」という曲のPVを観たから。

www.youtube.com

 

自殺の名所として有名な富士の樹海に数十のプリンタを設置し、Twitterという仮想世界の中で叫ばれる「死にたい」という言葉を含むツイートを独自のアルゴリズムで文字列分解したものを印刷し続けるという生と死を表現したPV。

最後の方はこちらが辛くなるくらい痛々しいツイートが沢山出てくる。

 

 

思い返すと、私も去年辺りまではTwitterに「死にたい。死にたい。」ばかり呟いていたように思います。

フォローしあっている友達も沢山いるのに、なんとも申し訳ないことをしました。

ですが、最近はそうやって呟くこともないですし、そもそも死にたいと思うこともほとんどないです。

 

 

そもそも、「死にたい」と言うのは本当に死にたいからじゃないんです。

生きたいからなんです。

 

生きたいけれども、上手く生きられずに苦しみが重なっていく。

苦しみから解放されたいけれども、どうにも出来ない。

衝突する生への渇望と苦しみの連鎖。

その苦しみから抜け出すには、死ぬことでそもそもの苦しみをなくすしかない。

そんな時に出てくる言葉が、「死にたい」なのです。

だから、「死にたい」という言葉の裏には、猛烈な生への執着があるんです。

 

 

翻って私を見てみると、死にたいと思うことが減ったということはそのような苦しみが減ったということです。

順風満帆という訳では無いし、嫌なことも沢山あるけれども、死にたいと思うほど苦しくはなく、何とか前に進む余力があるということです。

きっとそれは、私にとっても、周りにとっても良いことなのだと思います。

 

 

PVの最後では、印刷された紙によって、ある言葉が浮かび上がります。

その言葉の意味がどのような意味を持っているのかはAmazarashiさんに聞かなければわからないと思いますが、私がいまここにいられるのは、その言葉のおかげなんだろうなと思います。

田舎って良いな

先日出雲から帰ってきて、本日より仕事復帰…したくない!

 

というのはさて置き、出雲に行って田舎、あるいは実家って良いなぁと思いました。

私は生まれも育ちも神奈川県で、今も実家では無いものの神奈川県に住んでいるので、所謂田舎というものがありません。

両親の祖父母も片方は実家の近く、もう片方は兵庫県の甲子園の近くということで、どちらも都会なのです。

大学生の頃に友人が「夏休みは実家に帰る」なんて言って帰省するのを羨ましく見ていたことを思い出しました。

 

出雲市は山と海と田んぼだけで本当に何もありませんでした。(ごめんなさい)

そんな中をゆったりと走るバスや車。

何だか時間がのんびり過ぎているようで、都会のセカセカした感じとは全然違いました。

もちろん、実際に暮らすとなると大変なことや不満は沢山あるのだと思います。

でも、年に数回、自分の生まれた場所に帰って気分を変える事が出来たり、変わりゆく、あるいは変わらない街並みを眺めながら年月の経過を感じる事が出来たりするということは、とても羨ましいです。

 

全国から沢山の神が集う神話の街だからこその雰囲気なのかもしれませんが、出雲はとても良いところで、あんな所が実家だったら良いなぁと思ったのでした。