緩くいこうぜ、人生長いんだ。

世の中どうでも良いことばかりだよ

今朝、家にあった大量の柿を捨てました。

 

昨年末に実家から柿を15個ほどもらったのですが、なかなか食べるタイミングを作れず、半分位忘れて、放置しておくこと約半月。

先日ふと思い出して、入っていたビニールを見てみたら、そこにはカビと腐った柿による阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっておりました。

 

ごみ捨てのタイミングが噛み合わず、そのままにすること一週間。

本日ようやく捨てることが出来ました。

 

 

さて、美味しい柿をそんな風にしてしまったのは間違いなく私なのでそこは申し訳なく思うのですが、果たして、私が捨てたものは本当に柿だったのでしょうか。

 

私が捨てた何某かは、どんなに気が狂ってもそれを「柿である」とは呼べない代物でした。

あれを柿と呼ぶならば、是非とも美味しく食べてみてください。

私は嫌です。

 

辛うじて名前を付けるならば、柿「だったもの」です。

だから、私が捨てたのは柿ではなく、柿「だったもの」なのです。

 

ここでいきなりですが、これを人間に置き換えてみましょう。

ある日、普段からあなたと付き合いのある誰か(まぁ、友達ですかね)が亡くなりました。

その死体を目の前にした時、死体が火葬場で灰になるのを見送った時、あなたはそれをどう捉えるでしょうか?

 

その人と捉えるか、その人「だったもの」として捉えるか。

 

柿と同じならば、それは間違いなくその人「だったもの」です。

でも、私達はその死体を見て、あくまでその人であると認識しようとします。

それは、人間には柿と違って魂の概念があるからかもしれません。

あるいは、思い出がそうさせるのかもしれません。

でも、あくまで死体という物質のみを見た場合には、死体はあくまでも、その人「だったもの」なのです。

 

柿が柿「だったもの」になったのも、人が人「だったもの」になったのも、全ては時間のせいです。

時間が経てば、今あるものはいずれ無くなるのです。

私も、あなたも、何もかも。

 

捨てられた柿「だったもの」を見て、いずれ私も私「だったもの」になるんだなぁ、と思ったら、なんだか少し寂しくなってしまった。

そんな朝でした。