緩くいこうぜ、人生長いんだ。

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【仏教まとめ5】結局悟りって何よ

さて、ここまで仏教の基本的な教えについてまとめてきました。

今回は、仏教が目指すところの「悟り」とは何かをまとめます。

その前に、これまでまとめたことをおさらいしてみましょう。

 

  • 仏教とは、ブッダが見つけた悟りの方法であるが、ブッダは当初それを人々に広める気はなかった。
  • 仏教の世界観では、あらゆるものが縁起の法則の中にあり、無常である。
  • 無常であるが故に人間は満足することがなく不満足のループに囚われている。(苦)
  • 苦の原因は渇愛であり、その原因は輪廻の中で積み重ねられる業。

 

 

上記のまとめからいうと、悟ることで渇愛を滅し、我々は苦の世界(世間)から抜け出すことが出来ます

 

ここでいう世間とは、今生きている命だけでなく、輪廻のプロセスそのものを指します。

つまり、悟ることで輪廻のプロセス自体からの脱却が実現されます。

まず、苦の世界から抜け出すためには、渇愛を滅する必要があります。

渇愛を滅すると、悪い行いをすることがなくなり、業がたまらなくなります。

業がたまらないので、今の命が終わっても、輪廻のプロセスの中で次の生命が生まれることはありません。

こうすることで、業と生命による輪廻のプロセスが断ち切られ、苦の中に閉じ込められるということから永遠におさらば出来るのです。

 

さて、ここで元に戻ると、何故ブッダは自らが教えた悟りの方法を人々に広めようとはしなかったのでしょうか?

それは、悟りとは世界の転換であり、実際に経験をしない限り実感することが出来ないからです。

 

仮に、目の前にゴキブリが好きな人がいるとしましょう。

その人は、ゴキブリの良いところ、好きなところを喜々としてあなたに語りかけます。

さて、あなたはその人の話を聞いて、ゴキブリが好きになるでしょうか?

無理ですよね。

どれだけ良いところを言われたって、自分で良いと思わない限り好きになんてなれませんよね。

これは、あなたと彼が住んでいる世界が異なるからです。

彼は「ゴキブリが好き」という世界に住んでいる。

対して私や多くの方は、「ゴキブリが嫌い」という世界の中に住んでいる。

ゴキブリという生物は、どちらの世界でも変わりません。(黒い姿は変わりません)

しかし、それに対する認識が異なるが故に、双方の間に大きな壁が生まれ、互いを分かり合うことが出来ないのです。

 

仏教も同じです。

悟った人と悟っていない人の違いは、世界をどのように見認知しているかです。

悟った人は、渇愛を滅しているため、あらゆる欲望がありません。

きれいになりたいとも、もてたいとも、美味しいご飯が食べたいとも思いません。

つまり、世界は自らの認知から離れ、ありのままの姿で存在しているのです。

一方、悟ってない普通の人たちは、渇愛に従って生きているため、きれいになることを優先したり、もてることが第一だと考えたり、美味しいものを求めたりします。

私たちは世界を欲望という色眼鏡を通して見ているのです。

そんな風に世界を見て生きている人に、「きれいであることは無意味」とか、「美味しいものなぞいらない」とか言っても響きませんよね?

それは、悟った人は「そういう世界」に住んでいて、私たちは「そうじゃない世界」に住んでいるからです。

世界の認知が異なる。

これが、決定的な違いであり、超えることの出来ない壁なのです。

 

そして残念ながらこの壁の向こう側は、自ら壁を越えて体感することでしか理解することは出来ません。

いくら壁の向こう側から、壁を超えた世界のことを伝えても、壁を越えて自らの目で、身体で体感しない限りは理解出来ないのです。

これが、ブッダが当初教えを広めることを拒んた理由です。

 

そしてそれが、ブッダが最初に説いた仏教の姿です。 

仏教でいう悟りとは、神を信じるとか輪廻を信じるとかそういう話ではなく、一言でいえば、世界の転換

自分が生きる世界を転換して、新しい視点を得ることなのです。

 

 

 

以上が、原始仏教の教えのまとめです。

なかなか文章にまとめるのは難しいです。

 

さて、ここまで読んでくださった皆様は疑問に思うはずです。

で、どうやって悟るのよ、と。

これはまた次回に回します。

 

 

 

※あくまで個人が勉強した結果を個人のアウトプットとしてまとめているものです。

可能な限り書籍を参照して情報を集めていますが、間違っているポイントなどあると思います。

そのような点がありましたら、ご指摘いただけますと幸いです。