緩くいこうぜ、人生長いんだ。

お前の人生ようやく始まったようなもんじゃん。

客観的事実と主観的真実

先日のTOAST MASTERSでは、Table Topic Festivalが行われた。

Table Topicとは、一人が質問をして、それに対して1分程度の即興スピーチをするというもの。

前回は次の期の役員を決める選挙が行われたため、余った時間でひたすらTable Topicに充てるという会だったのだ。

 

その中で出た質問に、「ミシュランは口コミサイトに取って代わられるか」と言うものがあった。

答えた人のスピーチは要約するとこうだった。

「取って代わられない。確かに口コミサイトは便利だが、沢山の人がコメントをしているので一つの指標がない。だから、信頼が置けない。対して、ミシュランはしっかりとした指標などがあるので、信頼が置けるから。」

確かに、納得出来る回答だった。

 

それに派生して、私は以下のような事を思った。

料理とは客観的事実と主観的真実の世界のものであると。

 

つまり、料理単品をある指標ごとに客観的に数値化することは出来る。

例えば、このラーメンは塩分が○○gで、あっちのラーメンは××gというような感じ。

これが、客観的事実。

 

仮に塩分が美味しさの唯一の指標であるならば、理論的には塩分を増やせば増やすほど美味しくなるということになる。

しかし、実際にはそんなことはなく、美味しさを構成する指標は沢山あるし、どの割合を美味しいと感じるかは人によって大きく異なる。

ある人はこってりが好きだし、ある人はあっさりが好きだったりする。

つまり、美味しさというものは客観的な数値だけでは表せず、あくまで個人の主観の上に成り立っているのだ。

これが主観的真実。

 

この二つを考えると、そもそもミシュランも口コミサイトもどちらも食べた人の主観的真実の上に成り立っているので全く客観性なんてない。

少なくとも、誰かが美味しいと感じたものを私も美味しいと感じる保証はないのだ。

 

ならば、どちらも無意味かと言えばそうではなく、一つの指標としての役割はきちんと担っている。

この世界の全ては自分の主観でしか測れないのであれば、極論を言えばあらゆるものは比較不能であるから、借り置きでも何かしらの指標が必要となるからだ。

 

これは料理以外のことにも言えて、結局全ては自分がどう知覚するかにかかっている。

そう考えると、自分の住む世界を作っているのは自分自身で、私達はその世界の内側、つまり客観的真実から物事を眺めているだけという事に気付く。

だけれども、主観的真実の世界はあまりにも孤独で、他との比較や接点なんて物を持たないから、暫定的接点として、何らかの指標を用いるのだ。

それが常識だったり道徳だったりする。

 

客観的事実を変えることは出来ない。

だけれども、それを知覚した結果としての主観的真実は変えることが出来る。

その意味で、世界を変えるのは自分自身でしかないなのだ。