緩くいこうぜ、人生長いんだ。

世の中どうでも良いことばかりだよ

戯言社会観

よく、人間は社会の歯車であるという。一人一人が役割を持ち、交換可能な歯車として社会という大きな機械(機構)を動かしているというものだ。そんなことを言うと、「俺は歯車になんかなりたくない!」と社会の枠組みから飛び出そうとする若者が出てくる。昔の私もそうであった。

今朝、ふとそのことについて思うと、どうにもこの「社会の歯車」という表現に違和感を感じた。交換可能な部品で出来ていて、部品を交換することで動き続ける機械というものが、社会というものの喩えに合わない気がするのだ。何故ならば、社会は常に変わっているからだ。数年前に無かったものが突如として出てきたり、なくなったりしている。それを構成する部品も、良いものがあれば悪いものもある。全ての部品が機械を構成するための役に立っているかと言われればそうではなく、それが難しいいびつな形のものもいる。それらを「不良品」として爪弾きにするのは、どうにも心苦しい。社会というものは、もっと有機的なものではないかと思うのだ。

ならば、社会の喩えとして相応しいものは何だろうか。私は、「人間」であると思う。そして我々は、その目には見えない人間を形成する細胞なのだ。

人間なのだから、当然変化していく。体中の細胞が入れ替わったって、その人間が人間であることには変わりない。そしてそれらを構成する細胞は、古いものから無くなっていく。新しく生まれた細胞は生き生きとしている。一方で、上手く機能しなかったり、逆に悪さをする細胞だっている。しかし、それでもその人間の細胞であることには変わりないのだ。全ての細胞が関与しあい、人間の身体は成り立っている。

そうやって思えば、社会から飛び出そうとする若者は、生きのいい若い細胞みたいなもので、結局はそうやってイキる細胞も、また社会を形成しているのだと思う。昔の私が恥ずかしい。

さて、人間の身体は老化する。新しい細胞の生成が出来なくなり、いずれその機能を停止する。それが諸行無常である。人間がそうであれば、それにより構成される社会というものもそうなのかもしれない。いずれ社会も老化のために死ぬのかもしれない。日本の少子高齢化はどんどん進んでいる。まさに代謝が衰えている状態である。この流れは多くの先進国で起きているらしい。さて、日本は、あるいはこの社会は、いずれ静かに息を引き取るのだろうか。そして社会が死んだその先は、一体何があるのだろうか。