緩くいこうぜ、人生長いんだ。

世の中どうでも良いことばかりだよ

山と如実知見

大分では、由布岳登と九重連山という二つ(九重連山は三つだが)の山に登った。山登りをしている中で、なんとなくではあるが、原始仏教の教えにある「如実知見」を感じたので頑張って書いてみる。

 

原始仏教の世界では、人間は苦に満ちた世界に生きていると言う(一切皆苦)。そして、苦の原因は人間の渇愛、欲望であるという。

人間は様々な物事に対して自らの渇愛に従って意味付けをし、その中で生きている。それ故に人間は苦の世界から逃れられないのだ。仏教において、悟りに至るためにはこの渇愛を滅する必要がある。自らの意味付けを無くして物事をありのままに見ることが出来るようになった時(如実知見)、人は悟る事が出来るのである。

仏教の教えとは、極論この渇愛を滅するための方法論なのである。

 

由布岳を歩いていて、休憩がてらふと立ち止まった時、私は初めて静寂を感じた。何も聞こえないという訳ではない。風の音、虫の羽音、自らの息遣いが聞こえる。しかし、それらはすぐに広大な空間に吸い込まれ、反響もなく消え入っていく。後に残るのは耳が痛くなるような静けさだけ。初めての感覚に驚きつつも、これが静寂なのだと知った。

同時に、その静寂はきっとずっとただそこにあるものなのだと思った。山は日々雲に覆われたり覆われなかったりして、森があって、花があって虫がいて、静寂で。ただ、それだけなのだ。そこには意味なんかなくて、ただそこに「ある」だけなのだと思う。それらを「綺麗」とか「静か」とか感じて意味付けをするのは人間で、つまり私達は私達が作った「意味の世界」に住んでいるのだと感じたのだ。

 

目の前に聳え立つ九重連山の巨大な山々を目の前にして抱いたのは、「綺麗」とかなんだとかいう感想ではなく、もっと巨大な、地球がストレートに指し示す圧倒的な存在への畏れだった。

圧倒的な存在を目の前にしてどうしようもない、これは敵わないというある種諦めにも似た感覚。それは多分、私が意味を作り出すことを放棄した瞬間なのだと思う。

畏れを抱いて意味を捨てる。それはつまり、人間としての世界を捨てることである。だからこそ、昔の人は山を神と崇め、修行の為に山に篭ったのかもしれない。それは、人間なんかには敵わない存在なのだ。

 

由布岳九重連山を通じて、私は如実知見の一端を垣間見た気がする。つまり、私は意味の世界に住んでいることを実感し、それを放棄する瞬間を経験したのだ。あるいは、これが太古の昔にブッダが感じた悟りの感覚なのかもしれない。 

有名な登山家が、スピリチュアルな世界に入っていく理由がなんとなく分かった。

 

偉そうな事を書いておきながら、その実私はまだ登山も仏教も初心者である。ただ、初心者だからこそ得られる感覚というものもあるもんで、今回のこれが今後に通じるものであることを願う。

そんな事を思いながら、次はどの山に登ろうかと、次の予定を楽しみにしている。