緩くいこうぜ、人生長いんだ。

What matters is how you live your life.

文脈から解放された場所

昨日はお休みだったので、横浜は山下公園に行ってきた。ベンチに座ってビールを飲みながら何も考えずただぼーっとする。そんな時間を過ごすだけで、日々の疲れや悩みから開放されることができた。

疲れた時は平日の山下公園。それが私のお決まりである。これは多分数年前から明確に私の中にある決まりごとで、疲れた時は午後休でもなんでも取って山下公園に行く。

昨日、いつもの通りぼーっとしながら、何故山下公園なのかとふと考えてみた。疲れを癒やすならば、別に他の場所でも良いではないか。なぜ山下公園でなければならないのだろうか。もちもちとそんなことを考えていたら、ふと一つの答が思い浮かんだ。山下公園は、文脈から解放された場所なのだ。

文脈とは、自分が所属する世界のことである。仕事の文脈、家庭の文脈、趣味の文脈。それら文脈は明確に切り離されていることもあれば、複雑に絡み合っていることもある。私たちは、ある特定の文脈に身を置き、それらを行き来して生活している。仕事の文脈にいるときはその文脈の中での考え方や悩みがあり、家庭の文脈にいるときはまた同様である。それら文脈を通じて、あるいはそれら文脈により、私たちは自分という人間を規定、形成するのだ。

 一つの文脈に身を置くことは、その世界に浸ることでもある。それは技術や思考方法の習得などの面では良いことであるが、反面、一つの世界に染まるという危険性もはらんでいる。また、自らの動きや思考を制限し、視野を狭めてしまう危険性もある。結果、そこでの躓きがまるで人生全ての躓きのように感じられ、辟易してしまう。

本当はそんなことはないのだ。私たちは複数の文脈に身を置いているのだから、たった一つの文脈の中での失敗が、他の全てを否定することなんてありえない。極論を言えば、文脈なんてものは人が作ったものである。生まれたとき、人は皆文脈から解放されている。そこから、様々な組織に所属したり、経験をすることで文脈を形成していくのだ。だから本来、文脈なんてものは人生の一側面でしかないのだ。

以上の考えを踏まえて平日の山下公園を考えてみると、そこは私にとって文脈から解放された場所なのだ。仕事からも、TOAST MASTERSからも、筋トレからも、ゲームからも、物理的にも概念的にも解放された場所。そして目の前に広がる海と港は、私の悩みなんかに関係なくそこに存在する。その絶対的な隔絶性の中に身を置くことで、私は文脈から解き放たれて、ただありのままの「私」であることが出来るのだと思う。

そんな場所ならばどこにでもありそうではないかと思われるが、なぜ山下公園でなければならないのかは分からない。もしかしたら、そこが馴染みの場所であるだけかもしれない。場所的に家から30分位で行けてちょうど良いからかもしれない。横浜という場所が好きだからかもしれない。いずれにせよ、どういう訳か山下公園なのだ。

私たちは文脈の中に身を置いて日々を過ごしている。だが、その多くは自分が作ったものである。作れるなら、そこから出ることもできるはずである。文脈から離れてみる。そうすれば、文脈にとらわれない己を感じることができる。私にとってそのために必要な場所が、山下公園なのだ。