緩くいこうぜ、人生長いんだ。

What matters is how you live your life.

○○女子

最近(でもないかもしれないけれども)、「○○女子」という言葉が流行っている。「相撲女子」、「ラーメン女子」、「プログラミング女子」。「○○」に入る言葉が好きな女性の事をまとめているのだが、私はこの呼び方が好きではない。何が好きかは人それぞれであって、一人ひとりが好き勝手に楽しめば良い。わざわざ言葉でカテゴライズする必要はないにも関わらず、そうやって沢山の人を括って、周囲と壁を作る姿勢が嫌いなのだ。

でも、よくよく考えてみると、そうやってカテゴライズするのは、そこに所属する人たちのアイデンティティと趣味嗜好を守るためなのかもしれない。「○○」に入る言葉を見てみると、所謂世間一般的に女性が好まないと思われているものが入っている。個人的に、確かに相撲を好んで観戦する女性は想像しにくいし、プログラミングをする女性もしかりだ。つまりこの言葉は、「これまで社会的に女性が好むと思われなかったものを好む女性」、大きく言うと、「いわゆる社会通念から外れた人たち(社会的マイノリティ)」という意味を持っている。どの社会でも、マイノリティは生きづらい。そんな中で、マイノリティが自らのアイデンティティを守りながら生きるためには、集団になるのが手だ。集団になり、自らを主張することで、マジョリティの支配する社会の中であってもアイデンティティを守って存在することができる。だから、わざわざ言葉でカテゴリーを作るのではないだろうか。

ここまで、あたかも女性が、自らの意思でカテゴリーを作ったかのように話したが、逆に外部から勝手に押し付けられたというケースもあるだろう。それも基本的には同じ話で、今度は社会的マジョリティが、その人たちを社会的マイノリティという風にカテゴライズしてしまっているのだ。人間は、自らの常識に反する存在を受け入れるのが難しい。だから、社会的マジョリティは、マイノリティを「そういう人たち」としてカテゴライズしてしまった方が、精神的に楽なのだ。例えば「イクメン」とか「ゆとり世代」なんて言葉は、まさにこれに当てはまる。

何かをカテゴライズするのは、ある意味楽な作業だ。あの人はこう、この人はそう、という風に決めつけて分類してしまえば、いちいち色々考えたりしなくても良くなる。しかし、裏を返せばそれは、自らの常識とか社会通念が存在し、働きかけているということだ。一番良いのは、そんなカテゴリーが存在しないくらい、皆が自由にいられる社会であること。真の意味で多様な社会とは、そういうものだと思う。とはいえ、言うは易し行うは難しで、これは人間にとって根本的な話だ。これまでの人間の歴史はカテゴライズの上に成り立っている。国だって宗教だってカテゴライズの一種だ。だから戦争は起きるし、世界は一つになれない。大きく見ればそれだけ根深い話だが、少なくとも「○○女子」みたいな言葉が不要な社会くらいは、この日本であっても実現できるのではないだろうか。